Akihiko Ono Lab.
Nagoya City University
Graduate School of Design and Architecture
名古屋市立大学 芸術工学研究科
大野 暁彦 研究室(ランドスケープデザイン研究室)
第1回 2020/4/23
「みどり」
とは何か?
普段なにげになく使っている「みどり」という言葉を、掘り下げてみようというのが第1回目の講義の主旨です。「みどり」といっても色々な種類がありますよね?さて「みどり」は「自然」なのでしょうか?
初回の内容を読んでいただき、「みどり」に関する知識が深くなっていただければ何よりです。

さて初回なので、まず私の自己紹介から始めたい。
私は芸術工学研究科(キャンパスは名古屋ドームの南にある北千種キャンパスにある)に所属している。専門は、ランドスケープアーキテクチュアとよばれる分野である。ほとんどの人は聞いたことない分野だろうと思う。細かい分野の説明は後述することにして、私の生い立ちを少しだけ紹介したい。
原点は、人のためだけでなく自然環境のためにデザインすること
私は東京生まれ、東京育ちである。しかし、当時は住んでいたのは杉並区や田無市(現在の西東京市)など、住まいの近くには公園や畑がたくさんあるいわゆる日本の典型的郊外の風景が広がっていた。小学校時の楽しみといえば、学校から家までの道で道草を食うことであった。緑道沿いの草花を摘んだり、花の蜜を吸ったり、日向ぼっこしたり、友達とかくれんぼしたり・・・。1kmも満たない帰り道に1時間も2時間もかかって下校していた。そんな幼少期の体験があり、自然を考える仕事に就いた。
中学校以降、世界で起こる貧困問題や都市問題など様々な社会問題を知るたびに、どうにか人を救う仕事ができないものかと考えた。当時の頭では、医者がもっともわかりやすく人を救える仕事だと思い、医学部を目指して勉強に励んだ。しかし・・・そうもうまくいかず何度か挫折したこともあったこともあり、もう少し広い視野を持つようになった。そんな中で、読んだのがレイチェル・カーソン著の「沈黙の春」をはじめとする環境問題に関する本である(まだ読んだことがない方は、ぜひ手にとっていただきたい)。医学部に行けそうになく挫折していた中で、「環境問題を解決すれば60億人(当時の地球人口)を救えるかも?」と考え、環境問題を解決するような空間づくりに関わろうと、ランドスケープアーキテクチュアが学べるということで千葉大学園芸学部緑地・環境学科へ進学した。
千葉大学園芸学部は農学系の学部であり、植物学から地質学、造園学などを学びつつ、ランドスケープアーキテクチュアにおける空間デザインの作法を学んだ。しかし、アメリカで確立したランドスケープアーキテクチュアの概念と日本に昔からある造園や庭文化との関係が気になり大学院まで進み、庭園の研究をしてきた(これは現在でも続けている)。その成果の一部は、世界の美しい庭園図鑑・日本の美しい庭園図鑑として出版したので、図書館で手にとっていただけると嬉しい。
大学院修了後は、日本とは異なり自然が元からなく、海から何でも創り出したといわれるオランダに憧れ、文化庁の制度を使いオランダの設計事務所OKRA landscape architectsで勤務する。ここでの勤務経験が現在の私の設計活動にも大きく影響を与えている。これもその後の回で紹介したい。その後、日本で3年ほど設計会社で勤めたのち、大学院で博士号取得後は自身の設計事務所を設立し、日々、空間デザインでどのように人と自然にとってバランスとれた空間がデザインできるか考えながら設計活動に取り組んでいる。詳しい事務所での活動は、ウェブサイトでみていただきたい。ここでもいくつかを紹介する予定である。
さてここからはもう少し本題に入り、ランドスケープアーキテクチャについて述べていきたい。まず以下のムービーを見ていただきたい。ランドスケープアーキテクト(ランドスケープアーキテクチュアを実施する専門家)の仕事の概要が幅広く示されている(簡単な英語なので理解できると思いますが)。
潜在的場の可能性を空間デザインへと昇華する
ランドスケープアーキテクチュアとは何か、これはとてもなかなか難しい。今でも私はこれという答えをもっているわけではない。そもそも日本語ではないし、解釈はいろいろあってよいと思う。現に、国内でランドスケープアーキテクチュアという言葉に明確な定義はないし、個々で捉え方が違う。ある人に聞けば、「造園」のことをいうかもしれないし、ある人に聞けば「広域の緑地計画」のことだというかもしれない。
そもそもランドスケープとは辞書的には「風景」「景観」という意であるが、もともとはオランダ語(厳密にはフリジア語)であるlandschopから派生した言葉で、人が自然を開拓する中で生まれたようである。ランドスケープアーキテクチュアは、こうした人と関係する空間や環境をデザインする分野である。もともとランドスケープアーキテクト(ランドスケープデザインをする人)という職能は、GardenerやLandscape Gardenerと区別し、1873年に正式に開園年したNYのセントラルパークを設計したフレデリック・ロー・オルムステッド(Frederick Law Olmsted)が初めて専門職として使用した言葉であり、公園や広場、街路などの空間を設計またはまちなみデザインや都市域全体での緑地計画などをおこなう職業であると言われている。常に生態学や植物学、工学といった科学的見地を用いながら、審美的空間を設計する。主に公共空間の仕事が多く、オープンスペースの設計をすることが多い。 このようにランドスケープデザインははっきりとしたデザイン対象を持たず曖昧で未熟な分野であると思われる。土木や建築等のように生命の安全を保証するような技術や空間を設計するのではないため、その重要性も今ひとつ捉えにくい。そのため、都市計画や建築計画の中での法制度から派生する公園や緑化に専念することがしばしばである。日本ではこれが顕著にみられるが、これはランドスケープデザインそのものの可能性が十分に発揮されていない結果である(植栽空間をつくること、建築のまわりに植栽することだけが我々の仕事ではない)。
では一体ランドスケープデザインとはどういうデザインなのであろうか。私の考えを述べていきたい。 私が考えるランドスケープアーキテクチュアとは「その土地独特の(Site specific)環境特性や社会特性を引き出し、それによりその場で人々の生活や文化が展開するような空間をデザインする」ことだと考えている。つまり、何気ないことではあるが普段はみえてこない自然(水、風、におい、生き物など)や社会(伝統的な文化風景からゴミ処分場や発電所、工場に至るまでの都市の風景)と我々の人の生活との関係を、空間顕在化するような空間をデザインするのがランドスケープアーキテクチュアであり、その空間は不自然なく人々の生活の中に溶け込んでいるような空間であるべきだと思っている。近年温暖化やヒートアイランドなどという環境問題への関心の高まりから都市部で積極的に行われている”単なる緑化”は、植物などを都市に設置しただけで、その場の自然(風や水、その場の植生など)や周辺環境、人々の生活との関係は無視されていることが多い。人と環境との関係はこうした”緑化”では構築することは難しい。
ではその場の環境を顕在化させ、またその空間を人々の生活に馴染むようにするにはどのようにして設計するべきなのだろうか。そのヒントは①人間の行動・心理や②人間がその場の環境とのあいだにつくりあげてきた空間・風景などを分析する中で得られると思う。①についてここではアフォーダンスを例に話を進めていく。人は、モノ(段差やいす、樹木、影など様々)から意味を見いだすとその内容を受けて行動をおこそうとするが、これをアフォーダンスという(もう少し詳しく知りたい人は、J.ギブソンの「生態学的視覚論」を読んでいただきたい)。デザインにおいてアフォーダンスは重要であり、人が環境に対してどのように反応するかということを考えるヒントとなりうる。つまりその場でどのようなことがおこるのか人間行動心理的に予想することが可能である。アメリカのランドスケープアーキテクト・ローレンスハルプリンは、人の行動心理を研究しモールの設計を行った。彼は『モーテーション』と呼ばれる造語を作り、ダンスで使われる譜を参考に、人々の動きとそれによって移り変わる連続的空間との関係性を研究し、ニコレット・モールの設計に生かしたのである。このようにして人が都市環境にどう呼応するかを研究して、それを設計へ生かすことに成功しており、行動心理学の集積によりランドスケープアーキテクチュア空間をつくりあげたといえる。人が環境にどう反応するかを理解することで、その行動心理にあわせた設計をすることができ、それによりできた空間は最も人にフィットした空間であると考えている。

Fig.1 石川県輪島市上大沢の防風のための竹垣
②について、その場の環境と人との間でつくりあげてきた伝統風景について取り上げる。人はその場の環境を読み込み、快適な生活ができるよう環境に合わせて様々なカタチを作り出してきた。このようなカタチはアフォーダンスの結果ではなく、それぞれの場で環境と人間との対話よりできたカタチであり、それぞれの環境に対して、どのように人間が反応してきたかがわかる。石川県にある上大沢という集落は、冬場に風が強く、特殊な竹垣が集落の風景となっている。これは、その場の環境と人とが出会ったときに現れたカタチであり、これこそが人間とその場の環境との間でつくりあげてきたデザインであると考えられる。こうした空間は、維持し続けていくことで人々の生活や文化活動の一部となっている。最初に戻れば、この竹垣は、風というその場の環境が人間生活との関係の中で顕在化した結果であるといえる。
都市問題や環境問題により必要性が高まってきた職能
さて、なぜ今、ランドスケープアーキテクチュアが必要なのか。その重要な役割は大きく2つあると私は考えている(それ以外にもあると思うがここでは2つについて述べる)。1つ目は、近年多発する異常気象へのデザインだ。人々の予想をはるかに上回るような自然現象(例えば津波)は、ある一定の基準を決めてそれを遵守するというような考え方では対応できず、被害を許容するデザインや仕組みが必要である。津波で言えば、100年に1度を想定した設計基準の堤防では、1000年に1度の津波は耐えられない。莫大な資金を使い津波から完全に守る施設を整備するだけを考えるのではなく、”逃げる”ことや”移住する”、一部は壊れることを許容するなど複合的視野で考えていかねばならない。しかし密集して人々が住まう都市ではこうした自然の動態を容易に受け入れることは難しい。水たまりや、さび、苔、雑草ですら嫌煙されてしまうぐらいだからだ。ランドスケープアーキテクトは、こうした一筋縄では解決しにくい「都市において人の生業を維持しながら自然の動態を許容できる空間デザインをどう実現するか」を考えている。これについては、今後紹介していきたい。
ランドスケープアーキテクチャと聞くと、外来語であることからも新しい概念のように受け取られてしまうかもしれないが、実は日本にも古くから似たような考え方がある。例えば江戸時代に発展した江戸の庭園は自然の水系を生かして池が造られており、その水は水道インフラであったり、舟運など流通経路の一部であった。また都市近郊の洪水対策として、部分的に決壊させることで下流側における大規模な洪水を抑制する霞堤とよばれる特殊な堤もその例である。かつてはこうした自然のネガティブな側面もうまく生活に受け入れるデザインがたくさんあったが、なかなか現代の都市ではうまく活かされていない。ランドスケープアーキテクトはこうしたことも再考していくことが求められる。
2つ目に重要な役割は、周辺環境との一体化を図ることである。あらゆる建設事業は建設することで環境に何かしらの影響を与えてしまう。それは風や水、生物の動きなどの自然の流れやその場の生活や文化など多岐に渡る。ランドスケープアーキテクトはこうした、建設行為により阻害されてしまった環境を修復したり、これまでにない共存のスタイルを提言する。ランドスケープアーキテクチュアは生命活動に関わる最重要なことではないが、基本となる都市基盤や生活基盤に関わるものであり、既存の問題や社会現象をいかに捉えてどのように解決または発展させていくのかを考えている。例えば、ランドスケープアーキテクト集団であるfield operations は、flesh killsとよばれるNY最大のごみ埋立地を35年以上かけ徐々に浄化しながらも公園化していく計画がある(fresh kills park project)。ごみ埋立地特有の土壌汚染や発生ガスなど敷地の中では解決しえない問題を、植物や土壌などの自然の力を借りながら時間をかけて少しずつ浄化し、最終的には人が公園としてレクリエーション利用できるよう徐々に改変していくものである。ごみ埋立地は、土壌やという問題設定では、公園化という改変は行われないだろうが、ニューヨーク市民のセントラルパークにつぐ新たな憩いの場として広域計画の中に位置付けられている。
ランドスケープアーキテクチュアは、技術や文明が発達し成熟していく中でできた分野である。都市や文明の発展により自然と人との関係性が希薄化し、また都市が単一化・無機質化することで人の生活から乖離した環境が形成されて、さらには複雑で大きな社会問題が発生している中で、これらに取り組むべく空間を提示するのが我々の役割だと感じている。
以上が、本講義の大まかなイントロダクションである。
さてもう少し内容に踏み込んでいこう。
「みどり」から環境を読み解く
周知の通り、日本は実に豊かな自然環境がある。北は北海道から沖縄まで細長い島国であるため、動植物の種類は多く四季も明確にあり変化に富む。この点だけを考えても、日本の「みどり」は一様ではないことがわかる。しかし、そんなに広域的な視点がなくとも、よく観察すれば身近な「みどり」も実に多様であることに気づくはずである。この章では、「みどり」の見方を述べることとしたい。
まず「みどり」を見るときに、植物単体でみることも大事だが、まずどのような植物のまとまりなのかをみる。このようにある地域に生育している植物のまとまりを植生という。植生をみれば、人の介入やその「みどり」が形成されてからの時間、立地環境などの自然環境など周辺環境から影響の受け方などがおおよそ予想がつく。日本で植生をみる上では、代表的な樹種がわかるとよいが、そうでなくとも地表の植物、草本、低木、亜高木、高木の5層の組み合わせを見ることである程度想像がつく。というのも、日本の多くの「みどり」は最終的には森を形成し、ある階層構造をもつことが多いからである。このように時間の流れの中で森が形成されていく移り変わりのことを植生遷移という。少し具体的な事例を通しながらみていこう。

Fig. 2 関東以西の植生遷移の例
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Fig. 3 鹿児島県桜島周辺の植生
Fig.3は鹿児島県桜島周辺の植生である。ご存知の通り、噴火が多いため溶岩がころがっているが、溶岩の間から草本やマツが生え始めている様子である。Fig.2の植生遷移のうち裸地(らち)とは、ここでいえば溶岩だけが転がっている状態であり、そこから徐々に草本が生え
始め、写真の状態は陽樹であるマツがようやく生えてきた段階にある。ほぼ人為的な介入はみられない。
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Fig.4 阿蘇山周辺の植生
Fig.4は阿蘇山周辺の植生である。草原が広がっているが、この植生は自然状態ではなく、毎年野焼きを行い、人為的に植生遷移が進まないようにコントロールしている。これはこのエリアでは、昔から放牧が行われており、草を家畜に食べさせるために草原が維持されている。このように人は、生活スタイルに合わせて植生遷移をある段階より先に進まないように止めている。
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Fig.5 河川敷の植生と人の利用
Fig.5はある川の水際の植生である。似たような環境であるが、左右で大きく環境が異なると感じるだろう。左の写真では草丈が身長より高いため、水面が見えないし、水際にまで近くことはできない。少し荒れた印象を抱く方もいるかもしれない。右の写真のように定期的に草刈りを行うと草丈は低く抑えられ、水際で遊ぶことなど可能になる。これも人為的に植生遷移に関わることで、人にとって使いやすく親しみやすい空間に変えている事例である。人の住むエリアでは、必ずしも自然が自然に植生遷移が進行することが望ましくないケースもあり、常に自然に手を入れていく必要がある。
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Fig.6 館林美術館のランドスケープ空間 (設計:Studio on site)
人は自然を管理することで快適な空間をつくるだけでなく、都合の良い植物を組み合わせて、さらに快適な屋外空間をつくってきている。その中でも重要な植物が、シバであろう。シバという背丈が低く、踏まれても再生力の強さからすぐに回復し、緻密に張り巡らされ、刈り込みにも強い、人の利用に適した植物である。シバに木々を添え、緑陰を形成することで屋外でも涼しく快適に過ごせる空間を形成してきた。しかし、これも管理を怠ればすぐに植生が進行することになる(シバは多年生草本)。人の利用が前提にあるから成立している空間といえる。
Fig.7 かつての飲み水などに利用するため人為的に造られた玉川上水
Fig.7は東京の西部を現在も流れる玉川上水である。江戸時代に人為的に開削された水路であり、江戸のまちまで飲み水を運んでいた。現在も一部は水道水と使われているが、写真の区間の水は下水を高度に処理した水が流れている(一度は使われなくなったが、復活した)。江戸時代から続く水路として、人為的といえど植生も進行し、陽樹林の森が形成されている。周辺地域は市街化が進む中では貴重な自然といえる一方で、一部の上水沿いの木々が桜の健全性を保つため切られている。


Fig.8 玉川上水沿いの小金井桜として歴史的に価値のあるヤマザクラの並木を残すための伐採
Fig.8は玉川上水の断面である。玉川上水が掘削された際には護岸にヤマザクラ(小金井桜とよばれていたそうである)が植えられていたが、上水が使われなくなったこともあり植栽管理が行われなくなり、上水沿いの植生遷移が進んだことで既存のヤマザクラより他の木々が大きくなり一部ではヤマザクラが枯れるなど被害がでているという。そのために上水沿いの木々を伐採して桜を守るということなのである。桜はもともと陽樹であるので、いずれは陰樹林に取って代わる樹種であるから、森が暗くなり桜が枯れてしまう前に周りの木々を切って、桜を残そうとしたのだが、数少ない「みどり」を伐採することに反対する人も多い。
こうした事例をみると、どういった植生がふさわしいのか、利用のされ方や周辺環境との関係から丁寧に読み解いていかないと単に伐採がだめかどうかは判断がつかない。つまり、伐採せず放置すれば、桜は弱って倒木するかもしれないし、管理をしなければ藪化してしまい治安上の問題にもなりかねない。「自然を大切に」とはいうものの、都市においては「守ればいい」というわけにはいかないのである。
さて以上が1回目の内容である。なんとなく見ていた「みどり」も人ととの関係でその状態の有りようが決まっていることが多いことがわかったかと思う。その背景をよく理解しておかないと、その「みどり」をどう考えていけばよいかは見えてこない。ランドスケープアーキテクトは、こうした背後にある人との関係を読み解きながら「みどり」のあり方を模索している。次回はさらになぜみどりをデザインしなければならないかという内容を深めていきたい。